新日本プロレスに関する2つの記事を読んで道場論と興行論を考えてしまう
プロレスを遠く離れて
プロレスを見なくなって、どれくらい経つだろうか。
燃える闘魂 アントニオ猪木、タイガーマスクの大活躍、藤波ー長州 名勝負数え唄、UWF…
高校生くらいまではオンタイムで見ていた。テレビ朝日系列のワールドプロレスリングの放送が土曜夕方に移動して以降は新日から離れ、日曜深夜にやっていた全日の戦いを観るようになった。
社会人になっても職場から近かった武道館に何度も足を運んだ。その頃はUWFインターがリング内外でブイブイ言わせていて一番生きがよかった。神宮球場に観に行ったこともある。
そんな古きよき時代に終止符を打ったのがヒクソン・グレイシー対高田延彦戦である。
それ以降はプロレスよりバーリトゥードにどっぷりハマっていく。
振り返って考えてみれば、単なるミーハーだったことがよくわかる。
格闘技(PRIDE、K-1など)が大流行する中でプロレスは低迷期に入っていき、僕も仕事が忙しくなるにつれプロレスから遠く離れていった。
新日本プロレスの復活
最近はプロレス・格闘技をみることはほぼない。
唯一の接点はAmazon Primeでやっている「有田と週刊プロレスと」を観るくらいである。
それもなぜかこの番組を見てから昭和のプロレス(について語る有田氏の話)にハマったウチの奥さんにつられて見ているのである。
そんな僕の耳にもここ数年の新日の復活については色々な話が入っていた。
若くてグッドルッキングガイ(©叶姉妹)な選手が沢山活躍していて、かつてのおっさん達を中心としたファン層から女性、子供へ拡大していったらしい。
2つのインタビュー
ここ一週間ほどで新日に関するネットの記事を2つ読んだ。
1つ目は日経ビジネスオンラインというプロレスにはあまり縁のない媒体に載った現在の新日の社長のインタビューである。(NBOの記事は登録(無料)しないと読めないかも)
猪木が新日を去りスポンサーがブシロードに変わって以降、新日は「真剣勝負」というギミックを捨てWWEと同様にエンターテイメントとしてのプロレスを追求していったことがよくわかる。
ネットの活用は時代柄どこでもやっていることで目新しいことではないが、一見さんをプロレスに触れさせるきっかけにしていることは確かだろう。
僕がプロレスを見ていた頃のプロレス団体の社長はだいたいトップレスラーが務めていて、その脇にいかにも怪しげなフロントたちが取り巻いていたものである。
しかし現在の新日の社長は、外国人であることがそう思わせるのかもしれないが、まったくのビジネスマンだ。しかもまったく畑の違う他業態で成功を収めてきた凄腕である。そんな人がよく新日の社長になったものだ。
そして、もう一つは元新日総帥 アントニオ猪木へのインタビューである。
アントニオ猪木、新日を語る!「基本、『レスラーは強くあれ』。それが『強くなくてもいい』と変わったことは、オレには理解できない」
ご存知の方もいると思うが猪木は新日の社長だった。創業者でもある。
つまり、この2つのインタビューは新旧社長の絶妙な対比である。
道場論と興行論
これはバーリトゥードの大流行以前の昔にあったプロレスの考え方で、簡単に言えば以下の通りである。
道場論=実力主義(プロレスが強いのではなく、本当に強い)
興行論=エンターテイメント(本当に強いかは置いといて、客が呼べるプロレスラーが良い)
道場論を突き詰めていけば本当に強いものがトップに立つが地味なものになり客を呼べるかどうか疑問である。
逆にエンターテイメントを強く出せば華やかになるだろうけど、パンツ一丁の男たちがダンスを踊っているようにしか見えない。
この匙加減が難しく団体によってブレンドを変えて個性を出していたのだ。
上記のインタビューによれば、現在の新日は明らかに興行論を前面に出している。真剣勝負が見たければUFCでも見てくださいということだろう。
道場論の味が濃い目が好きだったオールドファンは新日の今の味には馴染めない人もいるだろう。
僕がそうであるように。
「No Country for Oldmen」 にならないように
猪木は昔のプロレス観(プロレスラーは本当に強い、プロレスは八百長ではない)から変わっていない、というか守っている。
猪木を批判しているのではない。僕は変わらず「アントニオ猪木」である猪木寛至に安心を覚える。死ぬまで「アントニオ猪木」でいてほしい。これは猪木だけにかかわらず、長州も藤波も前田も天龍も他のオールドプロレスラーにはいつまでもプロレスラーであってほしいと願っている。